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こんにちは。

テッチャンです。

今日は3月11日。

あの日から6年たちました。

多分新聞も、テレビのワイドショーも今日はあの日の事を取り上げているでしょう。

この記事では3月11日に起きた事を被災者目線で書いていきます。

最初は書こうか悩みました。

ですが少しでも現地の様子を知りあの日どういった事が現地で起きたか知るきっかけになり今後の震災、津波対策になればと思います。

もし震災や津波に対して良くない気持ちを持っている方はここでブラウザバックお願いします。

では書き綴ります。

今こうやってblogを書けているのも、クラクラが出来ているのも、『一本の電話』のおかげだと自分は思っています。

6年前の3月11日。

自分は営業として宮城県内を走り回ってました。

AM9:00

その日新人の同行もあり、二人で午前中県内でも被害が大きかった南三陸町の女川へ。

南三陸町はとてものどかなところです。

決して栄えている場所ではないけれど小さいとき何度も親父と釣りに言った場所。
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そんな事を思い出していました。

道中は後輩の商談の練習をしながら車を走らせる。

AM11:00

南三陸町女川到着。

残念ながら商談はまとまらず。

国道45号線の海沿いを眺めながら仙台市内の事務所へ帰路につく。

AM2:00

市内の事務所に到着。

その日はとても忙しかった。

次の商談は以前商談していたAさんというお客さんのところへ契約に行く予定でした。

契約する場所は七ヶ浜という所。

名前に浜がついている通り沿岸部。

時間は三時。

事務所へつくやいなや早々に契約の準備をし、
事務所を出ようとした矢先一本の電話が会社に鳴る。

上司『おーいテツ電話。Bさんが契約しに来たいって』

急いで電話に代わる。

話を伺うとBさんも以前商談していたお客さん。

今事務所の近くに買い物に来ていてついでに契約に寄りたいとの事。

急いで3時に待ち合わせをしていたAさんに電話をして時間を一時間ずらした4時に変えてもらうことに。




この電話を境にAさんとは二度と会うことも話すことも無くなりました。

そしてAさんの自宅も無くなっていた。
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震災が起きた時間は2時46分。

もしこの時Bさんから電話が来なかったら自分はAさんの自宅近辺にいたと思います。

Aさんの自宅は画像のガソリンスタンドのすぐ近く。

これが自分の運命を分けた一本の電話になりました。

AM2:46

Bさんと契約を終え急いでAさんの自宅へ向かう準備をしていたその時。

突然鳴る携帯の緊急地震速報。

倒れるロッカー。急いで会社の同期と机の下に潜る。

あ、これだめなやつだ。

すぐに同期の手を取り外へ。

なぜか外では3月には珍しい豪雪が吹雪いていた。

割れてはくっつく地面。鳴りやまないサイレン。動かない信号をよそに急いで自宅に帰りました。

幸いにも自宅は市内の中心部のため津波の被害はありませんでした。

ですが気仙沼にある両親の実家はどちらも津波で流されました。


そこからは自分にとっても忘れない二ヶ月になりました。

止まるライフライン。

水を貰いに役場に行く。

給水車で配っている水を取り合う大人たち。

たった二リットルの水で喧嘩している大人たち。

ガソリンスタンドも行列する。

200メートル進むのに半日並んでガソリンを入れられなかったり。

ガスだけは生きていたので自分は少しだけましだったかも知れません。

ヤカンにお湯をため濡れたタオルで身体をふく生活。

電気水道ガス全て止まっていた人はもっと大変だったとおもいます。

一ヶ月たってやっとライフライン全て戻ったと思ったら余震によりまた一ヶ月ストップ。

地獄→天国→地獄。こんな生活でした。

震災後も沿岸部にいけば窓ガラスに×が付いている車。

人が無くなった車がゴロゴロしていた。

あの日午前中に行った南三陸町のお客さんの自宅も無くなっていた。

ライフラインが止まったこともつらかったけど震災後営業で県内を回る度変わり果てた姿を見る方が辛かったです。


震災後わかったのは人と人との繋がりや優しさ。

何度も他県の知り合いや友達から物資を送って貰った事。

ライフラインも物資も無くなってから大事さに気付く。

助けてくれている人のありがたさがわかる。


あの日起きた悲しい事も、あの日のおかげでわかった人との繋がりも全部忘れません。

あの日に亡くなった1万5000人の命。

いまだに見つからない2500人の方へご冥福をお祈りするとともに今回のblogを終わります。